BLOG 興聖寺座禅ブログ
高齢者とお寺の関わり方
2018.5.24
安心感をもって「死」を見据える確認作業
私は現在、檀家さんのお参りを含め、高齢者の方と接する機会が増えております。
その中で感じるのは、ひとり暮らしの高齢者が多いということです。そして、ひとり暮らしの方に限らず、みなさんお話をうかがいますと、1時間でも2時間でもよくお話をされます。
どうしてそのようになるのだろうかと考えると、やはりさみしいからということになるのでしょうが、もう少し具体的に言えば、共通しているのはご自分の死に際のことをお話される方が非常に多いということです。むしろ、そのお話に尽きると言えます。
ご自分の体の状況についてお話されて、「病院では先生にこのように言われている」とか、「今こんな薬を飲んでいるのだけど、効いているようだ」とか。
または「今運動のために近くのスーパーに自分で行くようにしている」とか「行動範囲が狭くなってきて、前はあそこまで行けたのに今は行けなくなってきている」とか。
要は、現在のご自分の状況を分析されていて、その先にある「死」というものを見据えて語っておられるというように思われます。
自分の状況をひとりで考えていたところに他者が現れ、その他者が「話を聞き、共感してくれている」と思ったら、次々にいろいろな話をされるということなのだと思います。
そこにあるのは、「安心感を得たい」という思いです。「安らかに死にたい」「コロッといきたい」とおっしゃる方は大変多く、このままいけば安らかな死を迎えられそうだという確認作業をしていらっしゃるようです。
寺=お坊さんそのもの
もしお寺に来ることができなくなったら、私は「こちらから出向こう」と考えております。お坊さんは、社会の状況に目を向けてどんどん外に出ていくべきですし、今はそういう時代だと思います。
そうするとお寺という存在は、単にスペースとして固定された場所というイメージではなく、もっと流動的で機に応じて変化していくものだと思います。
そして、お坊さんという存在は寺にとって不可欠なものという考え方から、極端に言ってしまえば「寺=お坊さんそのもの」というところまでいってしまってよいのではないでしょうか。
なぜならば、お寺に行けない人たちにとって、実際に接している、接すことができるものがすべてなのですから。その方たちはおっしゃいます。「“お寺さん”が忙しいにも関わらず、来てくれた」と。
最期の時を充実したものにするためにできること
もっぱら死を待つという時期は確かに最期にやってくるとしても、その前段階として最期の時を充実したものとして過ごせるよう、能動的・積極的に「誰かのために何かを為し得た」という実感がなければならないように思います。
その「誰か」というのは、身近な子孫でも、見ず知らずの世界の困っている人、苦しんでいる人、誰でも良いと思います。自分のできる範囲での「何か」を為し得た、という思いを持つことが、とても大切なのです。
ですから、寺はそういう大切な思いを持てるように手助けをしなくてはならないし、よく話を聞いて、信頼関係を築いていかないといけないのだと思います。
次回は積極的に何を為し得るのかという観点から、話を進めてまいります。
私は、坐禅は単なる技術ではなく、「何のためにやるのか」「何を目指しているのか」を考えることが非常に大切だと思っております。ですから坐禅のお話をする前に、徹底的にこのような内容を述べさせていただきたいと思います。